【大会総評】1987年選手権
大会総評 - 「総合力野球」の勝利実証
(朝日新聞、1987.08.22東京朝刊22面)
今大会も、優勝したPL学園、準優勝の常総学院、ベスト4に勝ち進んだ帝京、東亜学園が実証するように、総合力野球の勝利だった。パワー野球からの移行は、一昨年あたりから始まっていたが、いまや高校野球の本流になった。
PL学園は、今春の選抜大会優勝チームをさらに鍛え、磨き抜いていた。この強さを、ひとことで表現すれば「負けない野球」といえよう。野村、橋本、岩崎らタイプの異なる複数投手を持ち、立浪を中心とした堅固な防御。長打力、集中打、機動力を駆使する多彩な攻撃。金属製バットになってから、これほど攻守そろったチームを見ない。桑田、清原時代のチームより強いのではないか。守りからチームづくりをする中村監督「会心作」であろう。
常総学院は、第66回大会の優勝校・取手二を育てた木内監督のチームだけに、戦いぶりも「小型・取手二」といった感じで、したたかさがあった。その代表が一人で6試合を投げぬいた島田の投球である。攻撃も上原(沖縄水産)、伊良部(尽誠学園)を打ち崩し、伝統の中京、川島の東亜学園に逆転するたくましさがあった。PL学園や帝京のように目立った選手がいないのに準優勝したのは、総合力以外の何ものでもあるまい。
帝京はPL学園に劣らぬほどバランスがとれていた。しかし守りのかなめである芝草にスタミナがなかった。PL学園に大敗したのはこのためで、完調のときに対戦させたかった。東亜学園は川島だけのチームかと思われたが、バックスは機動力を備え、守備も水準以上だった。でなければ、おそらく投手力に頼っていた佐賀工、尽誠学園、伊野商、函館有斗、帯広北と同じ結果になっていただろう。
このほか目についた好チームは、横浜商、中京、天理、一関商工、金沢、鹿児島商工、高岡商、関西、東筑、中央、八戸工大一などで、バランスがよかった。常総学院のように一戦ごとに強くなったチームが多かったのも、今大会の特徴だ。習志野、東海大山形、北嵯峨、延岡工などがそうだった。
期待を裏切ったのは、沖縄水産、東海大甲府、浦和学院、池田、明野、広島商、尽誠学園、佐賀工などだった。クジ運もあったが、戦力が片寄っていた。
総合力野球への流れは、これまでおざなりになっていた防御面を著しく進歩させた。まず、投手である。ここ数年の大会で、これほど充実した投手群を知らない。パワー攻撃に対処するため、指導者が懸命に投手を育成した成果だろう。しかし、残念なことが一つあった。送球の悪さである。失策の半数を超える64個が送球ミスだった。徳山と東亜学園が一塁悪投で逆転負けしたのは、全国の高校チームの教訓になったと思う。
だからといって、攻撃力が低下したわけではない。選手それぞれが体や素質にあった打法をした。盗塁も数より、ここ一番の二盗、三盗、本盗など、内容があった。
さて、総合力野球がいつまでも主流とは思えない。必ず上回る野球が編み出されるに違いない。それは、おそらくパワーあるバランス野球だろう。第70回大会を楽しみにしよう。
(柴崎八郎編集委員)
【大会総評】1986年選手権
熱戦を振り返って - パワーより総合力 エラーの半数は悪送球
(朝日新聞、1986.08.22東京朝刊18面)
攻守にバランスが取れた天理と松山商が決勝に進出した。この現象は、池田で始まったパワー重視の攻撃野球が、防御を加味した総合力野球へと、流れが変わりつつあることを示しているのではないだろうか。
優勝した天理は、準決勝までの4試合すべてに二けた安打を記録しているところから、表面は攻撃型の印象が強い。しかし大会前、橋本監督が「バランスがとれているチーム」と自負したとおり、決勝までの5試合を3失策の堅守で乗り切り、ひじ痛のため球威を書いて苦しんでいた本橋ら投手陣を支えた。
こうしたバランス野球を目標としたチームづくりの傾向は、昨大会PL学園にうかがえたが、ことに今大会は総合力を備えていなければ勝ち進めなかった。
その典型が8強に残った鹿児島商、沖縄水産、東洋大姫路、佐伯鶴城などであり、逆に期待を集めながら防御の弱さから1回戦で姿を消した池田や松商学園、2回戦で敗退した甲西、土浦日大、3回戦で去った明野、拓大紅陵であった。
投・打・守を見よう。
投手はほとんどのチームが180センチ近い長針の投手を持ちながら本格派が少なかった。反面、松山商・藤岡のスライダー、浦和学院・谷口のスクリューボールが代表するように、多彩な変化球をあやつる好投手が増えたのも事実である。
天理・本橋のひじ痛が話題になったが、これからの高校野球は複数の投手をそろえることが勝利への条件になるし、また投手の将来を考えたとき、大切なことではないだろうか。
打撃ではパワー一辺倒の打法から松山商、鹿児島商、沖縄水産などのようなミートを心がけて、鋭く振り切る打法に変化してきた。本塁打数が一昨年の47本、昨年の46本が25本に減ったのも、ここに一因がある。決勝で本塁打がなかったのも、第63回大会(56年、報徳学園 2-0 京都商)以来で、5年ぶり。
守備は今大会ほど上手なチームと下手なチームが、はっきり区分された大会も珍しい。しかも失策の内容をみると、総数128個のうち67個が悪送球と言う数字が物語るように、基本をおろそかにしたものだった。
最後に、享栄の不祥事は残念だった。代表校の自覚は忘れてはなるまい。松山商の窪田監督が、選手に「私生活がそのままプレーに出る」と訓示していた言葉を、日本高野連加盟3,890校の全選手に伝えておこう。
(柴崎八郎編集委員)
【大会総評】1988年選手権
大会総評 - 浦和市立、光った「無欲」さ 大型チーム、思わぬもろさ
(朝日新聞、1988.08.23東京版朝刊24面)
「戦国大会」の前評判通り、各チームの実力に差がなく、有力校が次々と敗れ去る波乱の大会となった。その中で、初陣の浦和市立が、はつらつとしたプレーに終始して甲子園に旋風をまき起こし、異彩を放った。浦和市立のこの新鮮な「無欲」さは、パワーに依存しがちな最近の流れに、新たな方向づけを示したといってもいい過ぎではないだろう。浦和市立の健闘は決してフロックではなかった、といっておきたい。
埼玉大会のチーム打率は2割5分2厘*1。49代表校中、最低打率で甲子園にたどり着いた浦和市立は、なんの変てつもない平均的なチームだと思われていた。それが、佐賀商に勝ってから、昨年準優勝の常総学院、関東の実力校・宇都宮学園、そして宇部商に延長の末、競り勝ちベスト4まで進出した。選手たちは「信じられない」の連発で、ふだん通りの落ち着いたプレーでなん度もピンチを切り抜けた。その支えとなっていたのは、エース星野の制球力と、勝負にこだわらず「すべてを出し尽くそう」とした点だろう。
優勝した広島商は、この浦和市立を鍛え抜かれたバント戦法で突き放した。5試合を通じて試みたバントは、スリーバントスクイズをふくめて24度、うち失敗はわずかに三度という高い成功率をあげた。好投手・星野(浦和市立)を攻め崩したのも、2-2に追いつかれたあとの6回に2安打と、二つのバントから敵失を誘って勝ち越し点をあげている。エース上野も試合ごとに外角のスライダーに鋭さを増してきた。打線もスキのない攻めで少ない安打を有効に生かしていた。さらに、堅実な守りで相手校を圧倒し、キビキビとした攻守交代はさすが、と思わせた。
準優勝の福岡第一は、左腕・前田と四番山之内を中心に、のびのびとした攻守で上位に進出した。最後に広島商の組織力にてこずって大魚を逃したが、個人の能力を最大限に生かしたプレーは、形こそ違えど4年前に甲子園で暴れた取手二(茨城)を思わせた。
大型チームで思わぬつまづきをしたのは、高知商、東海大甲府、拓大紅陵、天理、津久見だった。高知商は愛工大名電に終盤までリードしながら8回、岡投手が単調になって涙の逆転負け。東海大甲府も勝利目前の9回に代打逆転本塁打されて宇部商に足をすくわれた。また拓大紅陵はスケールの点ではずば抜けていながら、粘っこい浜松商に逃げ切られている。津久見も荒削りな打撃で広島商に完封負けした。初出場の札幌開成(南北海道)東陵(宮城)米子商(鳥取)などが、強豪チームを相手にしながら「同じ高校生だから、おじけることはない」と真っ向からぶつかっていって善戦したのと対照的だった。
技術的には本格派投手の少ない大会だった。中盤戦までは木村(宇部商)加藤(愛工大名電)高橋(拓大紅陵)篠田(大垣商)ら左腕投手の活躍が目立ったが、ベスト4に残ったのは前田(福岡第一)と平良(沖縄水産)の二人だった。通算36本塁打(最多は66回大会の47本*2)の数が出たのも、投手力の低下が原因だった。
また、長打力を警戒する余り外野手の守備位置が深くなったのも目についた。肩の強い外野手も育ってきたが、中継プレーのまずさが数多く見られた。
(山本敏男編集委員)
夏の甲子園、19年ぶりに毎試合抽選復活
夏の甲子園、準決勝前に休養日 選手負担減らす狙い - asahi.com
<中略>...抽選は、原則として第1回大会から76回大会(1994年)まで採用していた「全試合抽選」を復活させる。阪神大震災で阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)周辺が被災した95年に、応援団が来場計画を立てやすいようにと、大会前に3回戦までの組み合わせを決め、踏襲してきた。この方式をやめ、組み合わせ抽選会では初戦の対戦だけを決める。
以降は試合ごとに勝ったチームの主将がその場でくじを引き、次の対戦日時を決める。ただし、試合間隔が開きすぎたり、連戦になったりするなどの不公平感が出ないような工夫も採り入れた。...
東西抽選が廃止されたと思ったら今度は全試合抽選が復活。2007年の東西分離抽選の廃止に続き、どうも高野連の懐古主義的意図を感じてしまいます。
今回の全試合抽選で注意すべき点は、「全試合抽選イコール完全な毎試合シャッフルではない」という点です。朝日の記事によると、初戦の組み合わせ決定時点で勝利校の次戦の対戦日が予め指定されていることが分かります。例えば、大会1日目の勝者は大会7日目の2回戦のくじを引くよう予め指定されています。同じく同2、3日目の勝者は同8日目、同4、5日目の勝者は同9日目と指定されており、これを準々決勝まで続けるようです。これが前述の「試合間隔が開きすぎたり、連戦になったりするなどの不公平感が出ないような工夫」に相当するようです。要するに、開幕カードに登場した学校が2回戦の最後に登場したり、2回戦と3回戦が連戦になる学校が発生する可能性はハナから排除しているのです。
さて、これが1994年以前の毎試合抽選ではどうだったのかと言うと、どうやら高野連は試合間隔に敏感ではなかったようです。
一つ例を挙げましょう。1988年の第70回大会。開会式直後に登場した常総学院の初戦(19-1 小浜)は8月8日。ところが2回戦(2-6 浦和市立)は2回戦最終日である大会9日目*1の8月17日、実に9日後です。ここまで試合間隔が開いてしまうとモチベーションを維持するのが一苦労なのではないかと感じてしまうところ。以下に当時の新聞記事を紹介します。
はつらつ勝利 浦和市立(毎日新聞、1988.08.18)
<中略>...三回に3点を追加し一段とリラックスの浦和市立。一回戦終了後、気分転換のために2日間地元に一時帰省したのが奏功した。一方、常総は開幕ゲーム勝利後、神戸の須磨海岸でリフレッシュしたが、二度目の舞台を思う存分、泳ぎきったのは浦和市立だった。(海老名富夫)
ところで、上記の浦和市立のように過去の選手権では大会期間中の選手の一時帰省が認められていました。その後、近隣の代表校が自校で試合前調整ができる点などが不公平感を生んだらしく、現在の規定では禁止されています。
*1:雨天1日順延を含む。
甲子園球児の出場パターンを分類してみた
センバツが閉幕しました。浦和学院がとうとうやってくれました。過去何度も優勝候補に挙げられていながら毎回敗退していただけに、私自身も「今回もまた準々決勝あたりで負けるのかな」と若干思っていたのですが、3回戦以降全て二桁安打の猛打っぷりはその予想を盛大に覆してくれました。
さて、高校球児の甲子園出場パターンを分類してみました。
現行の学校制度では、高校球児は入学から卒業まで最大5回甲子園に出場するチャンスがあります。そのため、理論上は2^5-1=31 通りの出場パターンがあることになります。戦後の学校制度が施行されてから60年以上経つわけですが、果たして各31パターンを満たす高校球児が過去本当に存在したのかどうか検証してみました。
- 1. 3年夏のみ出場(BBBBA型)…(例)多数
最も多いパターンです。3年夏のラストチャンスに念願の出場を果たすとこうなります。このケースは、春よりも夏のチャンスが広がる地区(例:東北、一昔前の関東、北信越、九州など)に比較的多いです。
- 2. 3年春のみ出場(BBBAB型)…(例)多数
これも多いケースです。新チーム結成後の秋季大会で好成績を残して選抜に出場したものの、夏は地方予選で涙を呑んだというケース。1.との違いをあえて挙げるとするなら、近畿や一昔前の東海のように夏よりも春の方が甲子園出場のチャンスが広がる激戦区に多いように思われます。
文字通り、3年春夏の甲子園に連続出場したケースです。連続出場というのはチームは新チーム結成以降安定した成績を残したことの結果でしょう。ちなみに過去30年(1973~2012)の選手権優勝校のうち、その年に春夏連続出場を果たしているのは19/30≒63.3%です。これが果たして高い(低い)といえるどうかは難しいところ。甲子園優勝投手のヤクルト監督の小川淳司(習志野)も3.です。
2年生にしてベンチ入りを果たし、甲子園出場を果たしたというパターン。このケースは1.同様春よりも夏の方が出場チャンスが広がる地区に比較的多いです。面白いのは金城や中村のように最激戦区大阪で夏を制した選手がいるという点です。金城がバッテリーを組んでいた藤井彰人も、このパターンに該当します。
2年夏に甲子園出場を果たし、翌3年夏に連続出場を果たしたというケースです。これもどちらかと言うと地方の学校に多い気がします。
2年夏と3年春に出場を果たし、3年夏は地方予選で敗退したというケースです。5.との違いは春の出場という点で比較的都市部に多いということでしょうか。
2年夏から3季連続出場するケースです。ここに名前が挙がるチームは総じて強いです。ちなみに高津の高校時代は控え投手で、甲子園の出番は代打の1打席のみでした。
2年春のみ出場したケースです。 この時点でチームの主力だった選手はその後甲子園の土を踏めなかったという点で惜しまれます。
6.の逆パターンです。2年春と3年夏に出場したケース。涌井や辻内は2年時は控え投手でしたが、翌年は主戦投手として満を持して甲子園に戻ってきました。
これは珍しいです。春はいずれも甲子園の土を踏んだものの、夏はご無沙汰というケース。例に共通しているのはいずれも都市部の激戦区に属する高校の選手である点です。この他にも、荒木雅博(熊本工)もこのケースに分類されます。
2年春に甲子園の土を踏み、3年次に春夏連続出場を果たしたケース。上記のうち、石田以外は大阪の学校です。下級生から大舞台を踏み、最上級生として挑む夏はチームの主力として最激戦区を制しました。元木と選抜決勝を戦った山田喜久夫(東邦)もこのケースです。
2年次に連続出場を果たしたケース。ちなみに鈴木は高校時代ショートでした。
「投げると砂塵が待った」とのエピソードが有名な前岡勤也(新宮)もこのケースに分類されます。
2年春から3季連続で甲子園の土を踏んだというケース。選抜優勝投手の池永、東北屈指の左腕嶋、完全試合男の中野などがいます。そんな好投手でも最後の夏は予選で敗退しているあたりが甲子園に至るまでの道程の険しさを物語っています。池永が敗れた相手は、亀井進を擁しその年決勝に進出する早鞆でした。
ここに名前が挙がる球児は間違いなくその世代を代表する選手であることが多いです。金属バット元年の夏を制した剛腕土屋、春夏連覇を達成した石井や島袋、そしてダルビッシュ。最近では、3季連続準優勝の光星学院の北條史也や田村龍弘もこれに分類されます。
1年の夏に甲子園の土を踏みながら、その後は聖地から遠ざかった選手です。入部早々チームの主力として活躍したあたり、その野球センスには末恐ろしいものがあります。新浦に関しては大会後にドラフト外で巨人に入団し、高校を中退しました。その後ドラフト規定が変更され、「日本の高校に在学する選手は、全てドラフト会議に諮ることとする」との一文が付け加えられました。
1年夏に出場し、その後ラストチャンスの3年夏に甲子園に戻ってきた球児です。愛甲は1年から怪童として注目されていました。ちなみに畠山は父と兄も甲子園球児の野球一家だというのは有名です。
同じく1年生シリーズ。これは3年の春に選抜に出場した選手です。「春=激戦区にチャンスが広がる」という法則性からか、例にあるように神奈川や大阪、兵庫の選手が挙げられます。
一方こちらは3年時に連続出場したケースです。最上級生としてチームを甲子園に導く原動力となっている点では、1年夏の出場経験を他の選手に還元していると言えます。実際に、強豪校の中には甲子園のベンチ入りメンバーを決める際に新チーム結成時に役立てるべく必ず下級生を入れるチームも存在します*4。
下級生時に夏の連続出場を果たした選手です。これは珍しい。高橋は2年夏の開幕ゲームで沖縄尚学と対戦し、2番手投手としてサヨナラ打を浴びて敗れました。
3度の夏の大会でいずれも甲子園出場を果たしている選手。夏に標準を合わせてくる辺り、非常に勝負強さを感じます。仁志は初出場の常総学院をで1年生レギュラーとして準優勝に導き、その後坂が3年次に悲願の全国制覇を達成しました。
こちらも3年連続で甲子園に出場していますが 、21.とは違い3年夏ではなく3年春に出場したパターンです。
こちらは 2年の春以外に出場したパターンです。松井やいた頃の星稜、森岡がいた頃の明徳義塾はいずれも戦力が厚く、むしろ甲子園に出場できなかったのがあるのが不思議に思えるくらいです。特に松井は秋季北信越大会で4強入りしており、結果的に5季連続出場にあと一歩ということになります。この時敗れた相手は上田佳範を擁する松商学園でした。
- 24. 1年夏、2年春に出場(AABBB型)…(例)田村伊知郎(報徳学園)
同じく1年生シリーズ。1年夏から2季連続で出場したパターンです。最近では報徳学園の田村がこれに該当します。かなり珍しいので他の例が思い浮かぶ方はコメント欄にてお待ちしております。
こちらも3年連続出場です。21.との違いは2年夏ではなく春に出場した点です。本田や伊藤あたりは下級生時から騒がれていながら2年夏、3年春と悔しい思いをしただけに最後の夏のカムバックは胸に帰するものがあったでしょう。
- 26. 1年夏、2年春、3年春に出場(AABAB型)…(例)大塚尚仁、溝脇隼人(九州学院)
こちらも3年連続出場。3度甲子園に出ていながら、夏は1年夏の一度きりというのが珍しいです。 26.もサンプル数が少ないのでご報告お待ちしております。
これはかなり珍しいです。5季連続出場よりもある意味難しい。2年夏以外全て甲子園の土を踏んだ選手です。中西は1年夏に森浩二の控え投手としてベンチ入りし、2年春はライトとして出場しました。
下級生時に3度甲子園に出場しながら、最上級生としては甲子園の土を踏まなかった選手です。尾崎は2年夏の甲子園終了後に高校を中退し東映入りしました。
3年春以外に4度出場した選手です。原や津末と東海大相模で同期だった村中秀人(現・東海大甲府監督)も29.に分類されます。ちなみに上原は函館有斗の盛田と1年夏と3年夏の2度甲子園で投げ合っています。同一チームが甲子園で春夏ともに顔を合わせるのは多いですが、同学年の投手でしかも1年夏と3年夏に甲子園で投げ合うというのはかなり珍しいのではないでしょうか。
1年夏から4季連続で甲子園の土を踏みながら、最後の夏は地方予選で敗れた選手です。王は最後の夏、都大会の決勝で延長12回4点リードの状況から逆転サヨナラ負けを喫し、涙を呑みました。後の取材で王は「もし5季連続出場を果たしていたら野球にけじめをつけて大学にいっていたと思う。最後に出られなかったことで気持ちが宙ぶらりんになった」と語っています。最後の夏に敗れたことが世界のホームラン王誕生の伏線となっているというわけです。現役選手では中日の谷がいます。
- 31. 1年夏、2年春夏、3年春夏に出場(AAAAA型)…(例)堤達郎(高松商)、荒木大輔、小沢章一、黒柳知至(早稲田実)、桑田真澄、清原和博(PL学園)、鶴川将吾、梅田大喜(明徳義塾)、道端俊輔、黒川史陽、西川晋太郎、東妻純平(智弁和歌山)
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。新制の学校制度において、5度の出場機会全てに甲子園に出場した運と実力を兼ね備えた選手は過去12人しかいません(2021年現在)。一応補足しておくと、堤は高松商の俊足外野手、小沢・黒柳は早実の二遊間コンビ、鶴川と梅田はそれぞれ明徳の投手と内野手、道端は智弁和歌山の強打の捕手です。甲子園のスターだった荒木、桑田、清原については皆さんご存知でしょうから今更私が語るまでもないでしょう。
2021/10/25追記:智弁和歌山の黒川・西川・東妻を追加。