何の変哲もない、平均的な

高校野球のこととか

【大会総評】1985年選手権

熱戦を振り返って - パワー頼みを脱皮 ミート復活 バントも多用
朝日新聞、1985.08.22東京版朝刊18面)


今年のPL学園は、一昨年から投打の主軸だった桑田、清原が最上級生になったチームではあったが、パワーでは抜群の優勝候補といわれた昨年のチームより劣っていた。しかし、そのチームが常に安定した試合ぶりで全国3791校の頂点に立った。


力ずくではなく、好打好走で毎回得点、最多得点などの大会記録を書きかえた二回戦の東海大山形戦。大勝のあとは大味な試合運びになりがちなのに、慎重に戦った三回戦の津久見戦。技と力で逆転勝ちした準々決勝の高知商戦。絶対優位の準決勝・甲西戦もおごらず、決勝の宇部商戦はリードされてもあわてず、サヨナラ勝ちした試合内容はまったく危なげなかった。


原因は、どこにあったのか。戦力的にはパワーに片寄らず、力と技を組み合わせた攻めと他チームにはない堅実な守り、さらに全選手が野球をよく知っていたからである。そして昨年と最も違っていた点は、中村監督が日ごろから言っている「みんなの力で勝つ野球」が、選手たちに浸透していたことだろう。


パワー野球が主流を占めるここ数年の高校野球にあって、第51回の松山商、第55回の広島商のような、ち密でスキのない木のバット時代の野球を、少しでも加味したところに、今年のPL学園の特徴と強さがあったし、またこの多彩な野球が新しい潮流になるのではないかと思う。


だからといって、大会はひとりPL学園が光ったわけではない。準優勝の宇部商は強引な面はあったが、大会記録を更新する4本塁打をマークした藤井に代表されるように強打と田上、古谷という左、右二投手を擁して次々と強豪を倒し、決勝ではPL学園を苦しみぬいて観衆をわかせたのをはじめ、派手な攻撃野球で初の準決勝進出を果たした東海大甲府。江戸っ子らしい気っぷのいい戦いぶりを見せた関東一。全員野球の鹿児島商工。大型チームから大変身していた東北。PL学園に劣らぬ力を持っていた高知商。なかでも、試合ごとにたくましくなり、徹底した右翼打ちで逆転勝ちを続けてベスト4になった創立三年目の甲西の活躍は、大会を盛りあげた。


しかし、残念なチームもあった。銚子商徳島商、藤嶺藤沢、東海大工、東邦、県岐阜商、花園、和歌山工、広島工らである。これらのチームは、かつて自他ともに野球王国を許していた代表校たちだ。それが、そろって早々に姿を消した。


さて、今大会の特徴だが、ひと言でいえば「力のみに頼っていたパワー野球からの脱皮」であった。これは地方大会から見られたことであったが、本大会ではさらに印象強かった。


まず、上、下位とも、バットを長く持って振りまわしていた打法が変わってきた。清原や藤井のような天性の長距離打者は別として、中心打者でも多くの打者がバットを半握りか、ひと握り短く持ち、ミート打法やたたきつける打法をした。


次に目立ったのが、送りバントセーフティバントの多用であり、バントすると見せかけて打つバスターの急増である。ことにバスターは、昨年の大会は三度しかなかったが、今大会は14度も見た。


投手にも変化があった。力で抑える本格派は一段と少なくなり、技巧派が増えた。なかでも横手、下手投げが目を引き、秋吉(久留米商)、木島(関東一)らの好投が物語るように配球、コーナーワークのうまい投手が大活躍した。力には力が理想だが、金属バットの打撃を抑えるには、高校生ばなれした球威がない限り困難、という背景があるためだ。


いま一つ、今大会で目についたのが、外野手の守備範囲が広くなり、強肩の選手が増えてきたことだ。パワーアップとともに、金属バットの野球がもたらしたプラス面だろう。これに比べ好守の選手が少なかったのがさびしい。


(柴崎八郎編集委員)

相手は上原、2年前と同じ - 函館有斗・盛田幸妃投手(1987.08.12)

上原のいる沖縄水産と当たっただけでも不思議だったのに、またこんな場面が来るとは――。マウンド上の盛田幸は、運命のいたずらを感じていた。8回2死満塁。「押し出すんじゃないかな、この前と同じように」。一瞬、2年前のシーンが頭に浮かんだ。


60年8月9日、1回戦第4試合。相手は沖縄水産。1年生でベンチ入りした盛田幸は0-4の5回1死満塁でリリーフに立った。スタンドの光景も、グラウンドの広さも、そして暑さも覚えていない。ただ、捕手が構えた姿だけが脳裏に焼きついている。四球で押し出し。さらに6回には2四球のあと3点本塁打。忘れたい思い出だ。


この年、49代表735選手の中で、1年生は15人。マウンドに上がった投手は盛田幸以外に3人いた。辻本(智弁学園)、一条(藤嶺藤沢)、そして沖縄水産の上原。1年生投手が同じ試合で投げたのも珍しい。それが2年後にまた投げ合う確率は何万分の一、いや何十万分の一しかないのではないか。


7回までは、互角というより投げ勝っていた。試合も2-1でリード。そして、運命の8回を迎える。


カウントが2-3となった。ちょっと腕が縮んだ。速球を投げたつもりが、慎重になった分、ボールが外にスライドした。再び押し出しの悪夢再現。さらに痛打を浴び、逆転されてしまった。


盛田幸は上原と言葉をかわしたことはない。試合終了後のあいさつで「がんばれよ」と声をかけたが、歓声で返事は聞こえなかった。


日本南北両端に育ったエース。同じ漁港の町で白球に青春をかけた二人が、ちょうど中間地点に当たる甲子園で体験した不思議な出会い。「将来も野球を続けたい。きっとまた、どこかで上原と投げ合う気がする。その時、ぼくを覚えていてくれるかな」。いたずらっぽい目が輝いた。(石沢)


朝日新聞、1987.08.12東京朝刊19面)

「オレたちは強いんだ」紅顔投手とボヤスケ君 - 専大北上(1972.03.29)

「ピンチになればやっぱり胸はドキドキしたけど、キャッチャーのミットだけ見て投げた」


専大北上・畠山投手はもともと赤いホオを勝利の興奮でいよいよまっかに染め、トツトツと話した。「岩手は野球のレベルが低いなんていわれるのがいやだから、全力を尽くそう、とだけ思っていたんです」と畠山投手はつけ加えた。2年生のこの紅顔投手が8回の1死満塁、9回の無死二、三塁にも動じない試合度胸を持っていたのはおどろきだった。


立ち上がりから連続7三振。それもほとんど外角ストレート一本ヤリ。「大阪へくる前、専大といっしょに練習しましたが、大学生もてこずっていました」(北村監督)というほどの球威で、花園・清水監督は「スクイズを考えたが、ボールが速いからフライになるんじゃないか」と、ついにスクイズに踏切れなかったのだ。


「ふだんはボヤッとしているでしょ。ところがユニフォームを着てグラウンドに立つと、見違えるほどになる」というのが北村監督の畠山評である。


<中略>岩手県からは過去一関一高(第27回、1回戦不戦勝)、遠野高(第30回)、宮古高(第34回)、盛岡商(第38回、1回戦不戦勝)が出場しているが、いずれも第1戦で敗退している。


青森の三沢、福島の磐城が夏の大会で準優勝している。春浅いセンバツで東北勢チームが背負っているハンディはかなりのものだが「寒冷地チームだから…」という甘えも許されない。


「岩手の野球は弱くない」――そう信じて畠山投手は投げ続け、藤原はスクイズ失敗などサッサと忘れて決勝打を放ち、岩手勢のセンバツ史に輝かしい勝利のページを加えたのだ。たとえそれが1回戦という小さな関門だとしても、そして花園が強豪でなかったとしても……。


毎日新聞、1972.03.29東京朝刊17面)

「ぼくたち負けたんですか」 先発、失点、苦い降板 - 鳥栖商・城本(2003.08.22)

これだけ人は泣けるのか、というぐらい、鳥栖商の城本は泣いた。先発するも、4回途中に降板。「重野に、そして使ってくれた監督に申し訳なくて」


堀江監督は、これまで2試合を完投した重野ではなく、城本を先発に選んだ。「うちはスターはいない。全員にチャンスを与えたかった」。城本は昨秋に肩を壊すまでエースだった。その右腕にかけた。


立ち上がりは直球で押し、相手打線を詰まらせた。1点をリードした3回、「ここを抑えれば勝てる」との思いが腕の振りを鈍らせる。先頭打者に四球を与え、崩れていった。


リードを広げられても、鳥栖商は攻め続けた。失敗しても何度も盗塁を試みた。守備でも5回に盗塁を刺したり、内野手がイレギュラーを丁寧に処理したり。池上主将も「一人も守りの姿勢になるものはいなかった」と胸を張った。


10年前に初出場した時、常総学院に1-11で敗れた。雪辱はならなかったが、実力の差を縮めたことは証明した。


試合後、みんなが笑顔を取り戻す中、城本だけは泣いていた。「こんな強いチームが負けるなんて。本当にぼくたち負けたんですか?信じられない」。常総学院を本気で倒そうとしたからこそ、涙がいつまでも止まらなかった。


朝日新聞、2003.08.22東京朝刊17面)

18年前 プロ二軍 ここで落球 - 延岡工・西浦秋夫監督(1987.08.13)

「ここには二度と来れないと思っていた。来れただけでも最高なのに、そのうえ勝つなんて……。最高の最高です」。延岡工の西浦秋夫監督(36)はこういうと、うるんだ目で遠くを見た。


西浦監督が最後に甲子園に来たのは18年前。日南工からドラフト7位でプロ野球の南海入り。ウエスタンの阪神戦で、中堅手として土を踏んだ。思い出は落球。小飛球にどうにか追いついたが、軽率にヘソ捕りしてポロリ。穴吹二軍監督にこっぴどくしかられた。そしてわずか1年で自由契約に。


再出発で選んだ道は教師。九州産大で教員資格をとって最初に赴任したのは宮崎工。だが、「元プロ」は高校野球にはタブー。練習を横目に「もう少し工夫すれば打てるのに」と思っても、もう一人の自分が「お前に指導する資格があるのか」としかる毎日が続いた。ところが、半年後に思わぬ朗報が舞い込んだ。日本高野連がアマチュア復帰を認めてくれたのだ。


宮崎工から延岡工に移って4年目でつかんだ「甲子園」では感激続きだった。練習では、プロ時代には感じたことのない大きさに威圧された。開会式で大会歌が流れ始めると、全身にトリハダが立ち、涙があふれ出した。


そして試合。西浦監督の興奮が伝染したのか、選手たちは落ち着きを欠いた。1回、柳田が四球の走者二人を出した後、本塁打を浴びて3点のリードを許した。選手には「おまえたちはあと8回攻撃できる。1点ずつ入れれば8点になる」といったものの、本心は「これはやばいな」と思った。だが、4回の三津の本塁打で流れが変わり、7回には逆転にも成功した。


校歌は選手と一緒に大声で歌った。その時、西浦監督の脳裏には昨年暮れに死去した父親春義さん(当時69)の顔が浮かんだ。その父親は昨年の宮崎大会で勝ち進んでいる時に「甲子園に履いて行く」と靴を買ったが、履かずじまいで他界した。


「復帰に尽力してくれた高野連の故佐伯達夫会長ら、お世話になった人たちに僕ができる恩返しは野球だけ。ノックができる間は監督を。できなくなれば部長を。そして甲子園では選手の思い出づくりを。一日でも長く残り、いっぱい持って帰ってくれるといいな」(吉岡)


朝日新聞、1987.08.13東京朝刊19面)

敗戦にも淡々 - 防府商の井神投手「欲持ったのが失敗」(1974.08.20)

立ち上がりから14人の打者を手玉にとっていた防府商・井神投手の顔が、6回、くやしそうにゆがんだ。遊ゴロ失からはじまった2死三塁のピンチで、3番前嶋への第1球。得意のカーブを外角いっぱいに投げたつもりが、わずかな違いで真ん中へ――。「あっ、いかん!」と思った瞬間、打球は中堅手左へライナーとなって飛んだ。


それまでの井神は全く機械のような正確さで、カーブを、直球を、そしてシュートをコーナーに決めて銚子商打線をぴったりと抑えていた。「きょうは全神経を使って投げました。最初は10点くらい取られる覚悟だったのに、スタートはすごくよかった。4回ごろから投球の間隔をおいたりしてタイミングをはずした。ところが、6回ごろから、これならいけるんではないか?と少し欲をもったのがいけなかった。力みすぎたんです」と、井神は大量失点の原因を話す。そして「やはり、力のない者が欲をもつとだめですね」ともいった。しきりに「自分の非力」を強調するだけで、バックスの失策についてはひとかけらも悔やまない。「だって、仕方ないでしょう」。無理な問いに向かって、口をとがらす。「九人が一緒になってやっているんですから、これはみんなの責任なのです。とくに、僕に力があれば打たせずにすむんですから……」と、どこまでも静かな口調。


9回、最後の打者重田が三ゴロに倒れた。ベンチの中央に座っていた井神は、桧垣捕手の視線に出くわすと、にっと笑いさえ浮かべて立ち上がった。もう、その時には6回の失投のくやしさもどこかへ消え去っているようだった。


「自分なりによくやったと思います」と胸を張るエース。そのさわやかな態度には、なるべく親に負担をかけないで野球をやろうと、ゴルフ場の芝張りや、冬の郵便配達で得た賃金を遠征費にあてた心意気が感じられた。「地方大会からぶっ続けの一か月余りの合宿がすごく楽しかった。野球のことや、将来のことを話し合った夜が忘れられない」とのことだった。真紅の大優勝旗は逃したが、敗れたエースは、それ以上に大切な「なにか」を手にしたのではないか。悲壮感も、涙もなかったのに、なぜかジーンと胸に来るものがあった。


朝日新聞、1974.08.20東京朝刊15面)

「いつもの野球」いつもの笑顔 - 河野孝宏投手(倉吉東・3年)(1988.04.03)

試合終了後のインタビューの最中、相手の桐蔭学園を取材した記者が「君の配球はすべて読まれていたそうだよ」と質問を浴びせた。しかし、河野は顔色を少しも変えることなく「分かっていました。前半は外角を右へ、後半は細かくいろいろと。でも、いいんです。気負わない、いつもの野球で僕らは勝ってきました。だから、いつもの配球を通していきました」とニコニコしながら答えた。


8回1死二塁から桐蔭学園の4番・根岸に左翼手の右を襲う三塁打を打たれ、これが決勝点となった。打球を追いかけた左翼手が体のバランスを崩して転倒。もう少し、落ち着いた判断をしていれば……と悔やまれるプレーであったが、「あれねえ。あいつ、練習中によくやるんですよ。思わず笑っちゃいました」。


大会前の評価は高くなかった。しかし、絶妙の制球力を武器にボールをコーナーに散らす揺さぶりピッチングで頭脳派投手としての本領を発揮、2回戦で強打の東海大山形を5安打完封するなど快進撃を支えた。「一番弱いチームの一番頼りないエースだといつも思いながら投げたから、すごく気持ちが楽でした」


鳥取の空と顔しか知らなかった僕らが、甲子園の空と全国の顔を見せてもらいました。都会チームのバッティングはすごいなあと思った。夏までにタテの変化球をきっと勉強します」。168センチの小さなエースは、インタビューのお立ち台でぐっと胸を張った。(石)


毎日新聞、1988.04.03東京朝刊22面)