何の変哲もない、平均的な

高校野球のこととか

「石ころ野球」から三年で大輪育てる - 甲西・奥村監督(1985.08.21)

ヒゲの源さんが、ついに甲子園を去った。準々決勝まで三試合とも逆転勝ち、しかも二度までが9回の逆転サヨナラと乗りに乗っていた甲西も、PL学園には歯が立たなかった。「でも、大手を振って滋賀へ帰れます」。学校創立三年目で甲子園の夢を果たし、あれよあれよという間の準決勝進出。ユニークな発言で人気を集めた奥村源太郎監督の締めくくりの言葉は「3点足りなかった」だった。


「高校生のバッティングとしては考えられない水準」(同監督)のPL学園を相手に「10点差以内ならウチの勝ち」という筋書きだったからだ。選手たちをリラックスさせる方便のつもりだった。ことは思惑通りに進みはしなかったが、「たとえば、金岡は清原君にも逃げずに立ち向かった。指示通りのライト打ちもできた」。やるだけのことはやった、という満足感がある。


滋賀・甲賀高(現水口)で二塁手だった。中京大を出て、40年に信楽、47年に甲南高へ。相次いで硬式野球部をつくった。58年、甲西の開校とともに監督に就任、石ころだらけのグラウンドを自分たちの手で整備することから部の活動は始まった。名づけて「石ころ野球」。


甲子園での四試合を振り返ると、やはり逆転サヨナラの久留米商戦、東北戦が頭に浮かぶ。「あのゲームを忘れんと人生を送れ。苦しい時は思い出してほしい。そう選手たちにはいいます」と源さん。甲子園の思い出として「背中で感じたスタンドの拍手」をあげた。銀屋根の一般ファンから期せずしてわいた拍手のうずのことだ。


21日には新チームの練習を始める。24日からは甲賀地区リーグ戦が予定されている。「ベスト4の味をかみしめるヒマは、なさそうです」。人なつっこい大きな目は、早くも「次」へと向かっていた。


朝日新聞、1985.08.21東京朝刊18面)