何の変哲もない、平均的な

高校野球のこととか

青春譜 マウンドを踏めなかったエース - 国士舘・小島紳二郎投手(3年)(2000.08.01)

ついに一度もマウンドを踏むことなく、エースの夏が終わった。「すまなかった」と泣き崩れる小島投手に、仲間さえ掛ける言葉が見つからなかった。


138キロの直球とチェンジアップのコンビネーション。鋭くコーナーを攻めるカーブと「何事にも動じない精神力」(永田監督)で相手打線を封じ込め、昨秋の都大会優勝、6回目のセンバツ出場に導いた。「今大会屈指の本格左腕」と、プロ野球関係者も注目していた。


ひじの痛みに襲われたのは大会直前の6月下旬。日米野球の後だった。さまざまな治療を試みたが、大会が始まっても痛みは治まるどころかわき腹にまで広がっていった。準々決勝で一度はブルペンに立ったが、そこで断念。それ以降、ボールも握っていない。


だが、チームは大黒柱を欠いたことで発奮。「みんな、あいつに甲子園で投げてもらうまでは絶対に負けられないと、一つになった」(大木拓哉左翼手)。


あと1勝すれば悲願の夏の甲子園。「もし僕が投げられたら」。この日、試合を見守るベンチの中で何度か考えた。だが、ひじの痛みを思うと、ベンチから見たマウンドはやけに遠く見えたという。


兄も同じ悲運に泣いた。小さいころからライバルだった兄雄一郎さん(19)=創価大2年=も2年前、主軸として創価高をセンバツに導きながら、開幕直前の左足骨折で入場行進さえできなかったのだ。父で会社員の雅彦さん(48)は「兄貴の分まで頑張ると言っていたのに。あいつのことだからきっと何も言わないでしょうが、これからの長い人生でいい勉強になったはず」と、スタンドから息子を見守った。


監督就任18年目の初制覇を逃した永田監督は「小島のことは残念だけど仕方がない。あいつには絶対、野球を続けてほしいから」。小島選手のことを話すうちに、監督の険しい表情は笑顔に変わっていった。(合田月美)


毎日新聞、2000.08.01東京朝刊23面)