何の変哲もない、平均的な

高校野球のこととか

箕島、剛腕・山沖を攻略 右左にバント、好球必打(1977.04.08)

最終日(決勝戦) 箕島(和歌山) 3-0 中村(高知)


試合の始まるころには、日がさした。そして陽光の中にふさわしい試合だった。


中村はあの開幕戦の戸畑との試合からこの優勝戦まで、いつも笑顔の中で戦った。ピンチに立つたび、山沖投手は笑った。3回に栗山に打たれ先制されたときは、困惑した表情で笑い、6かい、追加点をあげられたときは、苦しそうな顔で笑った。そういう山沖に残りの8人も、ベンチの3人も、いつも笑いかけていた。


四国の辺地から12人でやってきたこの一枚岩のように団結したチームは、甲子園で戦う喜びと素朴さを、なんのてらいもなく、どの試合にもぶちまけた。負けて泣くものなど一人もなかった。そんな必要はないのだ。こういう中村に箕島の尾藤監督は無性にひかれ、中村が準々決勝、準決勝と勝ち進むころ、選手たちに「うちと中村がやるときには、オレはベンチで中村の応援をしていよう。お前たちは死にもの狂いでやれ」。ちょっぴり真情もこめていったりした。


いざゲームとなるとそうはいかない。箕島は天理から13三振を奪った山沖を崩すのに知力のすべてをかけた。高目のタマを捨て、直球にしぼって好球必打。右に左にバントでゆさぶる。


3回、嶋田はみごとな右へのドラッグバントを成功させ、山沖攻略のきっかけをつかんだ。嶋田は初戦、3三振し、トップから9番に下げられて燃えあがった。「初球から打つ」決意で全身をふくらませて、2回戦以後を打ちまくった。


この嶋田と、注射で肩の痛みをおさえて4日連投に耐えた東がそのまま、箕島の「気力と意地」を表している。


第40回大会で初めて紀州のみかん畑の中から出てきて以来、小柄な尾藤監督に率いられた箕島が、気迫でゆさぶったためしはない。この大会でも名古屋電気、智弁学園、中村――相手が強いほど力を出した。


中村は初回、1死二塁で三盗に失敗し、6回にも二盗に失敗した。ヒットエンドランのサインもれで「はじめて、ベンチと選手の糸がずれました」と市川監督。


4回には無死走者が出たあと、植木が初球を打って併殺。東が最も制球に苦しんだあたりだった。優勝戦の重みが、あの気性の明るい中村の選手にやっぱりのしかかっていたのだ。


試合が終わって、箕島の先制打をたたき出した栗山は、首を傾げ「山沖君は疲れていたみたいです。天理のときみたいな球を投げられたら――」。その山沖投手は自分の球威の衰えなど口先にも出さなかった。「箕島はみんなすごい目をしていました。好球は一つも見逃してくれなかった。ボクはもっとカーブをおぼえなくちゃあ」。笑顔で脱帽した。


土佐の真っ白い波と、紀州の燃えるようなみかん色がまぶしいようなさわやかな試合だった。(八代)


(毎日新聞、1977.04.08東京朝刊19面)