何の変哲もない、平均的な

高校野球のこととか

帝京無念 リード奪えず - 連投エース、気丈に去る(2007.08.20)

第12日目 準々決勝 第1試合 帝京(東東京) 3-4x 佐賀北(佐賀) 外を狙った、はずだった。13回2死一、二塁。帝京・垣ケ原が投じた166球目は、思いとは裏腹に真ん中に入る。 自慢の制球力を保つ左手の握力が落ちていた。「終盤は球が抜け出していた」。中堅に打…

安房・佐野巧投 - 低め集中、堅守信頼(2008.03.23)

第3試合(1回戦) 安房(千葉) 2-0 城北(熊本) 騒然とする場内をよそに、佐野は落ち着いていた。0-0の均衡が続く8回。三塁手の佐藤が邪飛を追ってカメラマン席に飛び込んだ。「心配で見に行きましたが、大丈夫そうだったので」。研ぎ澄ませた集中力を打者だけに…

秋田、土壇場の「花吹雪」 失策なんか気にしない(1986.3.27)

第1試合(1回戦) 秋田(秋田) 3-2 高松西(香川) 低めによくコントロールされ、右打者のふところ深くシュートでゆさぶる高松西・新鞍に秋田打線は手を焼いた。ゆっくりとしたモーションから、くるりと「1」をつけた背中を打者の方にむける変則投法が、さらにタ…

箕島、剛腕・山沖を攻略 右左にバント、好球必打(1977.04.08)

最終日(決勝戦) 箕島(和歌山) 3-0 中村(高知) 試合の始まるころには、日がさした。そして陽光の中にふさわしい試合だった。 中村はあの開幕戦の戸畑との試合からこの優勝戦まで、いつも笑顔の中で戦った。ピンチに立つたび、山沖投手は笑った。3回に栗山に打…

「ニコニコ野球」さわやかに去る - 甲子園わかせた浦和市立(1988.08.22)

観衆5万人の阪神甲子園球場が、「うわあーっ」と、ひとつのため息と化した。 浦和市立最後の打者松岡英明君、投ゴロで、一塁にアウト。第70回全国高校野球選手権大会(朝日新聞社、日本高野連主催)に初出場、21日の準決勝に進出した浦和市立は、ついに、広…

青春譜 マウンドを踏めなかったエース - 国士舘・小島紳二郎投手(3年)(2000.08.01)

ついに一度もマウンドを踏むことなく、エースの夏が終わった。「すまなかった」と泣き崩れる小島投手に、仲間さえ掛ける言葉が見つからなかった。 138キロの直球とチェンジアップのコンビネーション。鋭くコーナーを攻めるカーブと「何事にも動じない精神力…

「石ころ野球」から三年で大輪育てる - 甲西・奥村監督(1985.08.21)

ヒゲの源さんが、ついに甲子園を去った。準々決勝まで三試合とも逆転勝ち、しかも二度までが9回の逆転サヨナラと乗りに乗っていた甲西も、PL学園には歯が立たなかった。「でも、大手を振って滋賀へ帰れます」。学校創立三年目で甲子園の夢を果たし、あれよあ…

【大会総評】1985年選手権

熱戦を振り返って - パワー頼みを脱皮 ミート復活 バントも多用 (朝日新聞、1985.08.22東京版朝刊18面) 今年のPL学園は、一昨年から投打の主軸だった桑田、清原が最上級生になったチームではあったが、パワーでは抜群の優勝候補といわれた昨年のチームより…

相手は上原、2年前と同じ - 函館有斗・盛田幸妃投手(1987.08.12)

上原のいる沖縄水産と当たっただけでも不思議だったのに、またこんな場面が来るとは――。マウンド上の盛田幸は、運命のいたずらを感じていた。8回2死満塁。「押し出すんじゃないかな、この前と同じように」。一瞬、2年前のシーンが頭に浮かんだ。 60年8月9日…

「オレたちは強いんだ」紅顔投手とボヤスケ君 - 専大北上(1972.03.29)

「ピンチになればやっぱり胸はドキドキしたけど、キャッチャーのミットだけ見て投げた」 専大北上・畠山投手はもともと赤いホオを勝利の興奮でいよいよまっかに染め、トツトツと話した。「岩手は野球のレベルが低いなんていわれるのがいやだから、全力を尽く…

「ぼくたち負けたんですか」 先発、失点、苦い降板 - 鳥栖商・城本(2003.08.22)

これだけ人は泣けるのか、というぐらい、鳥栖商の城本は泣いた。先発するも、4回途中に降板。「重野に、そして使ってくれた監督に申し訳なくて」 堀江監督は、これまで2試合を完投した重野ではなく、城本を先発に選んだ。「うちはスターはいない。全員にチャ…

18年前 プロ二軍 ここで落球 - 延岡工・西浦秋夫監督(1987.08.13)

「ここには二度と来れないと思っていた。来れただけでも最高なのに、そのうえ勝つなんて……。最高の最高です」。延岡工の西浦秋夫監督(36)はこういうと、うるんだ目で遠くを見た。 西浦監督が最後に甲子園に来たのは18年前。日南工からドラフト7位でプロ野…

敗戦にも淡々 - 防府商の井神投手「欲持ったのが失敗」(1974.08.20)

立ち上がりから14人の打者を手玉にとっていた防府商・井神投手の顔が、6回、くやしそうにゆがんだ。遊ゴロ失からはじまった2死三塁のピンチで、3番前嶋への第1球。得意のカーブを外角いっぱいに投げたつもりが、わずかな違いで真ん中へ――。「あっ、いかん!…

「いつもの野球」いつもの笑顔 - 河野孝宏投手(倉吉東・3年)(1988.04.03)

試合終了後のインタビューの最中、相手の桐蔭学園を取材した記者が「君の配球はすべて読まれていたそうだよ」と質問を浴びせた。しかし、河野は顔色を少しも変えることなく「分かっていました。前半は外角を右へ、後半は細かくいろいろと。でも、いいんです…

【大会総評】1987年選手権

大会総評 - 「総合力野球」の勝利実証 (朝日新聞、1987.08.22東京朝刊22面) 今大会も、優勝したPL学園、準優勝の常総学院、ベスト4に勝ち進んだ帝京、東亜学園が実証するように、総合力野球の勝利だった。パワー野球からの移行は、一昨年あたりから始まっ…

【大会総評】1986年選手権

熱戦を振り返って - パワーより総合力 エラーの半数は悪送球 (朝日新聞、1986.08.22東京朝刊18面) 攻守にバランスが取れた天理と松山商が決勝に進出した。この現象は、池田で始まったパワー重視の攻撃野球が、防御を加味した総合力野球へと、流れが変わり…

【大会総評】1988年選手権

大会総評 - 浦和市立、光った「無欲」さ 大型チーム、思わぬもろさ (朝日新聞、1988.08.23東京版朝刊24面) 「戦国大会」の前評判通り、各チームの実力に差がなく、有力校が次々と敗れ去る波乱の大会となった。その中で、初陣の浦和市立が、はつらつとした…

夏の甲子園、19年ぶりに毎試合抽選復活

夏の甲子園、準決勝前に休養日 選手負担減らす狙い - asahi.com<中略>...抽選は、原則として第1回大会から76回大会(1994年)まで採用していた「全試合抽選」を復活させる。阪神大震災で阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)周辺が被災した95年に、応…

甲子園球児の出場パターンを分類してみた

センバツが閉幕しました。浦和学院がとうとうやってくれました。過去何度も優勝候補に挙げられていながら毎回敗退していただけに、私自身も「今回もまた準々決勝あたりで負けるのかな」と若干思っていたのですが、3回戦以降全て二桁安打の猛打っぷりはその予…

【Twitter】botを作りました

前から作りたかった高校野球関連のbotを作りました。 高校球児・監督発言録bot(仮) https://twitter.com/hsb_bot 高校球児・監督の発言をまとめました。試合後の選手および監督の談話がメインですが、後日談も一部収録しています。最初の方は70年代と00年…