何の変哲もない、平均的な

高校野球のこととか

18年前 プロ二軍 ここで落球 - 延岡工・西浦秋夫監督(1987.08.13)

「ここには二度と来れないと思っていた。来れただけでも最高なのに、そのうえ勝つなんて……。最高の最高です」。延岡工の西浦秋夫監督(36)はこういうと、うるんだ目で遠くを見た。


西浦監督が最後に甲子園に来たのは18年前。日南工からドラフト7位でプロ野球の南海入り。ウエスタンの阪神戦で、中堅手として土を踏んだ。思い出は落球。小飛球にどうにか追いついたが、軽率にヘソ捕りしてポロリ。穴吹二軍監督にこっぴどくしかられた。そしてわずか1年で自由契約に。


再出発で選んだ道は教師。九州産大で教員資格をとって最初に赴任したのは宮崎工。だが、「元プロ」は高校野球にはタブー。練習を横目に「もう少し工夫すれば打てるのに」と思っても、もう一人の自分が「お前に指導する資格があるのか」としかる毎日が続いた。ところが、半年後に思わぬ朗報が舞い込んだ。日本高野連がアマチュア復帰を認めてくれたのだ。


宮崎工から延岡工に移って4年目でつかんだ「甲子園」では感激続きだった。練習では、プロ時代には感じたことのない大きさに威圧された。開会式で大会歌が流れ始めると、全身にトリハダが立ち、涙があふれ出した。


そして試合。西浦監督の興奮が伝染したのか、選手たちは落ち着きを欠いた。1回、柳田が四球の走者二人を出した後、本塁打を浴びて3点のリードを許した。選手には「おまえたちはあと8回攻撃できる。1点ずつ入れれば8点になる」といったものの、本心は「これはやばいな」と思った。だが、4回の三津の本塁打で流れが変わり、7回には逆転にも成功した。


校歌は選手と一緒に大声で歌った。その時、西浦監督の脳裏には昨年暮れに死去した父親春義さん(当時69)の顔が浮かんだ。その父親は昨年の宮崎大会で勝ち進んでいる時に「甲子園に履いて行く」と靴を買ったが、履かずじまいで他界した。


「復帰に尽力してくれた高野連の故佐伯達夫会長ら、お世話になった人たちに僕ができる恩返しは野球だけ。ノックができる間は監督を。できなくなれば部長を。そして甲子園では選手の思い出づくりを。一日でも長く残り、いっぱい持って帰ってくれるといいな」(吉岡)


朝日新聞、1987.08.13東京朝刊19面)